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好きってなんだろう、と思ったので考えてみた。


ブログ, 雑談 2021年7月2日

みなさん、こんにちは。

久しぶりのブログ更新。サボってすみませんでした。

しかしですね、、、どうせ誰も見ないだろうと思いながら書いていたこのブログも、

たまに友達や保護者の方に、「ブログ見てるよ」なんて言ってもらえるから、実は気が抜けないのだなと思うわけです。

だから、何を書こうかななんて考えているうちにだんだんと億劫になって、それで結局書くのをサボるのですから、

ある意味では読んでいるみなさんのせい、という事になります。

なりませんか? なりませんね。はい、言い訳です。本当にすみませんでした。

さてさて、最近の近況というのでしょうか、

ブログの更新をサボって何もしていなかったかと言うと、そうでもありません。

しっかりと世の中に目を向け、話題を探していました。

そして、、、、そのおかげでこの話題にたどり着いたわけです。

「好き」って何? 今日はそんなお話です。

昨今、「好きなことをして生きていく」なんて言葉が流行ってますよね。

いや、実に素晴らしい。本当にそう思います。

まぁ月並みなことを言えば、「楽して生きる」のと「好きなことをして生きる」というのは全く違う。

そんな話になったりすると思うのですが、、、

今日はそんなことを言いたいのではないのです。

人が何かを「好き」という時に、何をもってそれを「好き」だと判断しているのか、

もっと言うと、「好き」という状態とはどういうものなのかという事をですね、はい、考えてみたわけです。

僕は研究者ではありませんから、

脳から○○というホルモンが出て、それが交感神経に作用して~

みたいな話をするつもりはありません。というかできません。

すごくシンプルに、今までの経験を振り返って、自分の中にある言葉で説明します。

それでもいいよ、という方は読んでくれると嬉しいです。

では、いきます。

僕は日々の授業で、生徒たちと会話をしているとき、よくこんなことを聞きます。

「今、何が好きなの?」

これは、若者の話題についていくため、24歳のおっさんが必死になって聞くものですが、

そう言うと生徒たちは、最近だと

きめつ~、マイクラ~など分かるものから、ゾイド~、SCP~、などなど聞いたこともない単語なんかも出てきて

結局、個人で興味を持っているものは違っているのだなと気づかされます。

正直、僕のように社会に染まり切った人間にすれば、

流行りなどのような社会の集団意識にとらわれず、個人の好きなものを主張できると言うのは、シンプルにかっこよく、また羨ましくもあります。

まぁ、一人や二人からぐらい、「○○ちゃんが好き~」なんて話を聞いてみたいものですが、それはまたいつかに期待するとして、

一方では、こんなことを聞いたりもします。

「勉強好き?」

これを聞いて、返ってくる答えは正直最初から分かっています。

それでも聞くのは、授業で少しでも勉強の楽しさに気付いてくれたらなと思う、僕のエゴのためでありますが

案の定、

「嫌い」

そう返ってくるのです。

いつもなら、「そうだよね~」なんて返してすぐに戻るのですが、

ちょうどその時、今日のテーマについて考えていたこともあって少し深く聞いてみるわけです。

「なんで、勉強嫌いなの?」

すると

「楽しくないから」・「面白くないから」・「ゲームのしたいのにできないから」

などなど、これまた様々な意見が返ってきます。

けれど、そんな意見の中にこんなものがありました。

「やりたくないのに、やらされるから」

これを聞いて、大の大人がハッとするわけです。

や・ら・さ・れ・る。やらされる。

なるほどなと。

つまり、子供にとって、勉強は強いられるもので、生徒たちの方に立ち返れば受動的にならざるを得ないものだと、僕にはそんな風に思えたわけです。

もっと言うと、望む前に与えられ、自由というより義務の上で勉強には向き合うということです。

日本には子供に教育を受けさせる義務というものがありますが、

それが学校に行かせるという意味に置き換わり、

学校に行くなら勉強をするという事になり、

つまりは、A=B で B=C なら A=C という感じで『教育=勉強』となる。

そんな方程式で、知らず知らずのうちに勉強することを義務にしてしまっていたと気づかされます。

もちろん、勉強が必要ない、なんて言うつもりはなくて、

むしろ勉強を義務ではなく、自由の上で、自分で選んでやっていると思ってもらうためにどうするか

それを考えるキッカケになったというだけです。

思い返せば、自分も小学校5年生の頃から高校卒業まで8年間サッカーを続けてきましたが、

最初は純粋に楽しくて始めたサッカーも、中学や高校に上がって、立場や役割が生じ、

「やらなくては」と思った瞬間に、気付けばだんだんと嫌いになっている、そんな時期がありました。

もちろん、楽しいと思える瞬間もあって、全体で感情のバランスをとっていた気がしますが、

結局は嫌いになる最大の要因は、『義務感』なんだと、ここにきて思うわけです。

そして、ようやく今日のテーマになりますが「好き」の正体です。

「好き」をそのまま解釈しようとすると、非常に難しいと思うのですが、その反対の「嫌い」の原因は分かっています。

そこで、非常に安直ではあるのですが、数学の対偶の真偽が一致するのと同じ要領で、

「義務感がある」ならば「嫌いになる」

を真だとすれば、その対偶である

「好きになる」ならば「義務感はない」

これもまた真になると考えられます。

こんな定義的な説明だと、直感的に分かりにくいかもしれませんが、

要は、本当に「好き」なものは義務感から一番遠いところにあるということです。

もっと言うと、

やらなくてもいいのに、敢えてやることを選んでいるものは「好き」なもの

そう言うこともできるでしょう。

大人になると、生きていくために、仕事や人間関係、なにかと義務がまとわりついてくる気がします。

自分の意思で何かを決めるという事が、実はほとんどできていなくて、

知らず知らずに自分の好きなことができていない状況にあるのかもしれません。

けれど逆に言えば、そんな状況だったとしても、

あらゆるものに義務感ではなく、自分で望んで、選んで、そうやっていると考えを変えることができたなら、

つまらないものも少し「好き」に近づけることができるのかもしれません。

もしかしたら「好き」という感情は自分で作れるのかもしれません。

さて、どうだったでしょうか。

割と感覚的に言っていた「好き」というものを、今回は自分なりに言語化してみました。

結論的には、義務感のないところで自分で選択してやっている事や物はきっと「好き」なものということになりました。

しかしですね、、、ということは、このブログの更新を「好き」でやるためには、

やはり更新に義務などつけてはいけないと思うのですよ。

僕の自由に書くことを選択できないと、好きな状態は継続できませんから。

という風に、上手くオチた気がするので今回はこの辺で。

また気が向いたら書くことにします。